1964年生まれ。社会医学技術学院作業療法学科卒業。みさと協立病院で作業療法士として勤務。新日本婦人の会で子どもの医療費無料化に取り組む。地域でボランティア活動に励む。家族は夫、子ども三人。

生い立ち

父の転勤で各地に転居

 私は、1964年、茨城県西部の利根川に面した猿島郡境町で生まれました。父親が日本道路公団職員であったので、千葉県銚子市( 市内で2回転居)、岩手県陸前高田市、埼玉県春日部市(市内で2回転居)と、ひんぱんに転居を経験しました。
 そのころの日本は、「高度経済成長期」で、高速道路が延長され、地方にも大きな橋や有料道路が建設されました。その建設事務所や管理事務所が、父の職場でした。両親は、子ども2人を抱えての転居は、気苦労も多かったと思いますが、私は多くの友人に出会い、豊かな自然の中で過ごした事が心の財産となっています。

幼稚園時代の、のずえ明美=1969年冬、岩手県陸前高田市。
東日本大震災の津波被害で周辺は全て流されてしまいましたが、この幼稚園の門柱だけが残っていたそうです。

経済的に自立できる生き方を作業療法士に

 高校生となり、将来の職業や生き方について考えるようになりました。経済的に自立できる生き方として、教師と医療従事者をイメージしました。人と違ったことを好む性格なので、まだ日本では資格者数の少なかった作業療法士をめざすことにしました。
作業療法士は、国家資格を持ったリハビリテーション技術者です。料理、着替え、文字を書くなどの応用的動作能力と、地域活動への参加、就学、就労などの社会的適応能力を維持・改善し、『その人らしい生活』の獲得を目的にリハビリテーションを行う専門職です。
 高校卒業後、社会医学技術学院の作業療法学科に入学。学院では、国家資格めざし、知識や技術を習得するための授業を受けました。同時に、社会での作業療法士の認知を広げ、病院や施設でのポジションを確立し、職業人として自立することをめざすように指導を受けました。
 自分で考えて決めた行動には責任を持つ。その成果により良い評価を得られる。この学院の指導方針が、その後の職業人としての働き方に影響を与えています。

民医連・みさと協立病院の精神科病棟に勤務

 1990年、民医連(全日本民主医療機関連合会)に加盟する東京勤労者医療会の、みさと協立病院に入職しました。作業療法室を開設し、精神科病棟で、急性期の患者さんの治療にも携わりました。
 みさと協立病院は、精神科病棟と老人病棟で構成されている病院で、いわゆる社会的弱者で制度のはざまにあり、自分らしく生きることが困難な患者さんや家族が、多く存在していました。入院治療により病状が安定して退院するも、地域生活を支える制度がぜい弱であったり、社会での病気への理解が低いことにより、病状が悪化し、再入院となる患者さんが多くいました。
 患者さんの人権を守り、無差別・平等の医療を展開することの難しさに、何度も直面するも、やりがいも感じる毎日でした。
 その医療活動を追求しながら、病院の経営を守るためには、社会保障制度の充実や、医療制度の改悪を阻止する活動が必要と、強く思うようになりました。

みさと協立病院時代の、のずえ明美。

仕事も社会活動も前向きに尊敬する職員から声をかけられ日本共産党に入党

 民医連職員として社会保障充実の運動や、首長選挙にも積極的に関わるようになる中で、困難な状況の中でも、つねに前向きに周囲の職員や地域の方と手を携えて生き生きと活動しているのは、日本共産党の党員であると知りました。
 その党員の職員たちに「飯田(旧姓)ちゃん、行くよ!」と声をかけられ、昼休みを早めに切り上げ、車にハンドマイクを積み、宣伝しながら地域をよくまわりました。今からすると、ずいぶんと自由な活動が許されていた時代でした。党員である職員は、信念をもって仕事も社会活動にも取り組み、「私は共産党の旗を担いでいるんだよ」と堂々とのべ、その姿に驚きとともに尊敬の気持ちも湧いてきました。
 その尊敬する事務職員と看護職員から、入党の話を受け、民医連職員としてだけではなく、日本共産党の党員として社会や政治と向き合う決意をし、1998年7月、入党しました。

川崎市で子育て―子ども医療費助成拡充をライフワークに

 みさと協立病院は、結婚・出産に伴い退職し、川崎市での子育てがスタートしました。夫は、みさと協立病院で出合った精神科医の野末浩之で、現在は、神奈川民医連の会長をしています。
 私は、新日本婦人の会高津支部に入会し、川崎市の子育て環境改善の活動に加わりました。子ども・教育部会では、おもに子どもの医療費助成制度を拡充する運動を担うことになりました。川崎市や神奈川県との交渉に、妊娠中の大きなお腹で参加し、国会行動にも子どもを連れて参加しました。
 子どもの命と健康を守る医療費助成制度の拡充は、母親だけではなく、多くの人々が求めている制度であり、私のライフワークともなっています。
 また、高津区内では、当時川崎市議会議員であった石田和子さんと地域の様々な課題に取り組みました。我が子も通っていた久地小学校の生徒数が急増したことによる新校庭設置では、石田市議は現地に何度も足を運び、議会でも取り上げていただき、小学校では市内初の歩道橋で渡る校庭が完成しました。
 歩道を渡る小学生のお子さんを持つ保護者が、事故により亡くなってしまった危険な溝の口交差点の問題では、横断歩道の位置や照明、信号機の点滅時間などの改善を要望し、安全性を高めることができました。石田和子さんの、つねに地域住民の困りごとに寄り添い、ねばり強く要求実現のために活動する姿に感謝するとともに、日本共産党の議員さんをとても身近に感じられるようになりました。

柳沢厚労相(当時)に乳幼児医療費無料化を訴える新日本婦人の会の高田公子会長
(当時)と、子どもを連れた母親たち。右が、のずえ明美=2007年5月30日 国会内
「しんぶん赤旗」提供。
子ども医療費助成の拡充を求めて市役所前で宣伝する、のずえ明美(左)=2019年6月27日。

東日本大震災―陸前高田市へ災害支援ボランティア

 2011年3月11日の東日本大震災と、それに伴う福島第一原子力発電所の事故は、人生のターニングポイントとなりました。陸前高田市が、市民7人に1人が亡くなるというような、じん大な被害を受け、私の大切な思い出の地が変わり果ててしまったことが大きな衝撃でした。支援物資を送るだけでなく、南相馬市や陸前高田市での災害支援ボランティア、高津区内の放射能測定、脱原発運動にもとりくみました。
 被災地でも、住民の苦難に寄り添い、要求実現のために、ねばり強く国や自治体に働きかける日本共産党の姿がありました。地方議員と国会議員の連携が力を発揮し、「住民の困難あるところに日本共産党あり」と実感し、私も先輩党員のように日本共産党の旗を担いでいきたい と覚悟ができました。

赤ちゃん、高齢者の見守り、久地駅ふみ切りでの児童・生徒の登校見守り―地域でのボランティア活動

 地域の身近な相談者としての活動は、赤ちゃん訪問、ひとり暮らしの高齢者の見守り、災害時の要援護者訪問等々です。久地駅前踏切りの児童生徒の登校見守りも、安心して暮らせる地域づくりにつながるようにと、とりくんでいます。
 ボランティア活動によって身近な暮らしの中から様々な要求が見えてくると考え、地域住民としての視点を大切に持っていようと、つねに思っています。
 また、新型コロナウイルス感染症により、地域での子育てサークル活動が開けなくなってしまいました。そこで、オンラインでの子育てサークルを、地域の子育てに関心のある方々と2020年5月から毎月実施しています。毎月様ざまなテーマでおしゃべりをしたり、講師による学習会をしたりと、私自身も楽しみながら刺激を受けています。コロナ禍のもとでのつながり方を、今後の活動に活用できればと考えています。

久地駅ふみ切りで子どもたちの見守り活動をする、のずえ明美(正面右から2人目)です。

保育施設の職員として

 横浜市鶴見区にある、あけぼの共同保育所の事務職として働いてきました。働く保護者を支える保育施設は、子どもの発達を保障する大切な場所でもあります。子どもを真ん中に保護者と保育所が手をつなぎ、子どもの成長を共に喜び合える保育をめざしています。
 入所の相談を受ける中で、保護者の方々のおかれている様々な困難を知ることがあります。その困りごとに寄り添って支援をしています。保護者の方々は仕事と子育てを両立させる生活に必死です。非正規雇用の問題を含めた働き方、女性に家事や育児の負担が多い、などの問題は以前からありましたが、新型コロナウイルス感染症の影響で、より深刻になっています。
 そして保育所で働く保育士も疲弊しています。感染対策と保育内容を工夫する毎日ですが、大きな役割に見合った賃金の保障はなく。離職する保育士が後を絶ちません。保育士の国の配置基準も少ないといった保育制度の問題も、働きがいを失ってゆく原因となっています。
 保護者も保育士も誰もが働くことを喜びとし、安心して暮らせる賃金が必要だと思います。

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